2023-03-16

入門!( 論理学 | BitVisor )

Table of Contents

やったこと

  • 研究室に顔出し
  • 『入門!論理学』を読み始めた
  • NN

研究室の進捗共有の見学と、顔合わせを兼ねて学校に行った。来年の研究が楽しみになった。

入門!論理学

4章まで読んだ。論理学で扱う語彙は日常で使う言葉と重なるものが多いが、厳密には期待する性質や意味が異なる。この本は一貫して、日常的な言葉の使い方と、論理学での言葉の使い方との距離を示しながら論理学的な考え方を伝えようと試みており、かなり読者に寄り添った進め方がなされている。ただ内容は普通に難しい。もう1周くらいはする予定なので、そのときに感想を書くことにする。

BitVisor

BitVisor がどんなものかが何となく分かった。以下は概要(ちょっと調べただけなので適当なことを言っている自信しかありません

BitVisor はハイパーバイザの一種で、OSとハードウェアの間の抽象化レイヤとして設けられるもの。既存のアーキテクチャへレイヤを増やすだけなので、OSから見てもハードウェアから見てもハイパーバイザ自体はただのドライバの顔をしたプログラムと言える。^[と理解している。]

一般的なハイパーバイザは仮想化を目的とするものが有名で、その場合、レイヤを挟む目的はデバイスに依存しない機能を提供するためだったりする。しかし一方でBitVisorはそのような機能にはあまり関心がない^[と思っている]。デバイスへのアクセスをほとんどそのまま行うし、レイヤを増やすことによるオーバーヘッドもできるだけ小さくしようと努力する。^[適当かもしれない]

では平野研で BitVisor を利用・開発する目的は何かというと、それはセキュリティである。BitVisor を利用してメモリ・ネットワーク・ストレージとOS間のやり取りを捕捉し、その利用パターンやアクセスパターンを(機械学習などによって)解析することでウイルスを検出するのが主なミッション。このような、やり取りの捕捉・解析あるいは、それを元にした実用的なアンチウイルスの仕組みを持ったハイパーバイザの開発 が、研究の主題である^[適当言ってたらごめんなさい]。

ハイパーバイザのレベルでこのようなデータを捕捉することは、OS自体を破壊しようとするウイルスや、OS上で他のプログラムの実行を妨害するようなウイルスに対しても抵抗する余地が生まれる^[と思っている。レイヤが違うので。]。

思ったこと

1 主語デカ矛盾爆発メモを尊べ

「主語が大きい」という指摘をよく目にする。そして、そういった指摘はたいてい正しそうだ。かくいう私も主語の大きさはかなり気にしてしまうところで、何かについて言及するときには「必要十分な大きさの」主語をできるだけ選ぼうとする(ような気がする)し、思ったことをメモしておこうとするときでさえ、いろんな言葉が示す範囲について考え、書いては消しを繰り返してしまう。

こういった営み自体は悪いことではないものの、私は例えば思ったことをメモとして書き記すとき、言葉の影響範囲について考えているうちに「一般的にはそんなことないかも」とか「ここで断定している内容は正しくないな」という結論に至ってしまって筆を止めてしまうことが少なからずある。

今日思ったのは、こういった場合に筆を止めてしまうことは案外大きな損失なのではないかということ。

そもそも人は意識的にせよ無意識的にせよ、いくらかの文脈の上で思考をめぐらせたり、発言したりする。 これはつまりどんな状況でも人はある程度の前提に同意した状態で論を進めているということで、このような文脈あるいは前提が共有されている(と信用する)から、我々は詳細すぎない粒度の言葉を使って会話ができる。そしてそれによって、わざわざ詳細に示す言葉には何らかの大事な論点が隠れているだろうという推測も使ってコミュニケーションがとれたりする。さらには、その文脈を正しく読み取った上で、言葉の意味を正しく捉えられることこそが「読解力」なのだとさえ言えそうだ。

これを踏まえると、「必要十分な大きさの主語」を選択することがいかに難しいことであるかがわかる。なぜなら、言葉の意味を正しく伝えるのに必要な詳細度は、その言葉が属する文脈によって決まるからである。固定された詳細度で会話をするなら、いかに文脈を共有できるかがミソになりそうだ。

多くの人に読まれるテキストでの主張の場合、これが非常に難しい。読者はそれぞれに違う文脈を持った不特定多数の人間があり得るし、読者がその主張を読む時間はいつでも構わない。もはや「必要十分」という概念さえも曖昧で、読者全員に意図した解釈を届けることは困難である。

もちろん、困難だからといってそれを諦める理由にはならないというのは正しい。議論をしようと思ったら認識をすり合わせる努力が必要であることには変わりないし、ターゲットを分析してみたり語義を共有してみたりなど、そのためのテクニックはいくらでもある。

しかし今私が考えたいのは、「思いついた主張をメモとして書き記す」とき、そんなことを考える必要があるのかどうかである。その主張にはメモ書きとしての価値しか期待できないし、それを目にする他人といえば未来の自分くらいだ。 そのようなメモ書きは、あとからそれを見返したときに同じ考えを想起できるか、あるいはそれをきっかけに思考することができるかどうかである。メモ書きは思考をダンプした中間表現でしかない。

主張を書き記したメモがただの思考のダンプなら、それがある程度文脈に依存していようが、さらには矛盾を孕んでいようが大した問題ではない。だとすると必然的に「主語がでかい」ことなんかほとんど問題外なのである。

だから主語のデカさを怖れてメモをやめることには意味がない。めちゃくちゃ矛盾していようが論理破綻が見苦しかろうが、書いておくこと以上に貴いことはないのである。

2 思考をほんとにダンプしてみた

上の 「## 1 主語デカ主張を怖れるな」 は、内容のとおり思考をダンプしただけのもの。 後先考えずに書いているから構成はぐちゃぐちゃだけど、あとからブラッシュアップしたり、単に読み返すことができる程度のレベルではある。

日報の「#思ったこと」セクションはなんでも書いていい場所だと思っているので、とりあえず書くだけ書いておくのもいいなと思った。

ただ、この先あまりの怪文書ができてしまったら公開はやめておくかも。