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猫への憧憬とレッテル貼りのジレンマ

2023-04-16

猫を飼いたい。まあ今は実家に住んでいることもあり漠然とした憧憬でしかないんだけど、猫を飼いたい。

ただ、猫を飼うというのはあまりに重大なことだ。モフモフの命が俺の手に預けられるということ。自分は本当に終わっている人間だということを思うと、やっぱり飼っちゃいけない。

どう終わっているかといえば、例えば人間関係が終わっている。明確な理由なく突然嫌になって人と関係を絶ってしまったりするし、いい感じの人との連絡でさえめちゃくちゃ放置してしまったりする(これ、確認しておらず気づいてないとかではなくて、通知を見てずっと返信しなきゃとは思っている。でも気づいたら月日が経っている)うまく説明できるかわからないのだけど、お互い何も期待していないくらいのゆるやかなつながりでないと急に辛くなってしまうんだよな。一人の人間として普通に向き合われてしまうと、それはつまり友人として扱われるという光栄なことなんだけど、そんなことされた暁には俺に何も期待しないでくれという気持ちになる。

俺のこういう気持ち悪いところはもちろん自分でも気持ち悪いと思っているし実際当事者には非難されるんだけど(もちろん非難するのが普通)、「あいつはダメだ」「酷いことすんなよ」という非難それ自体が、悪い自分に居場所を与えている節があるようにも感じる。終わっている奴というレッテルを貼ることで、そういう人格の存在を許していると言えばいいのかな。ダメな自分、気持ちの悪い自分という自慰的な陶酔が、かろうじて自分を生かしているなと感じるときもある。

でもこういう自己陶酔って、明確に当事者から非難されるという事象とは切っても切り離せないものだと思う。おれが酷いことをした相手本人は元気に生きていて、そのうえでこいつのせいで嫌な思いをしたとか、こいつに迷惑をかけられたのだと言ってくれるからこそこちら側は安心して生ぬるい自虐に走れるというか、自虐的な自己愛に浸ることができる。そういう面があると思う。(書きながらも自分が本当に気持ち悪いと思う。でもこういう感情も少なからず自己陶酔に支えられているんだろう。終了条件なしの再帰呼び出しみたいだ。状態機械で再帰をするから、処理が永遠に終わらず俺の思考を支配し続ける。)

でも俺が不義理をする相手を人間から猫にして考えてみると、話は変わってくるように思う。猫は俺を非難しない。そりゃ俺がちゃんと世話できなかったら飯をよこせとか怒るんだろうが、それは自立のうえの非難ではなくて、猫自身の生存のための切羽詰まった非難である。そして猫は喋らない。非難を言葉にすることができない。そうすると俺は「こんなことを言われた」などと相手に貼られたレッテルを眺めて陶酔に走ることができない。猫は俺にレッテルを貼ること無く哀れに存在するのみで、猫に酷いことをした人間、というまごうことなき事実だけがそこに残る。あまりに現実的で決定的すぎて、自慰に走る余裕など与えられない。

飼う前から世話できなかったときどう許されるかをかんがえているようなものだからやっぱり俺は本当に終わっているのだけど、「終わっている俺」というラベルがまた終わっている俺自身を生かしている。飼っている猫だけはちゃんと世話できるくらいに終わっていない人間になりたい。でもそれを証明するには猫を飼わねばならず、またジレンマだ。結局、不確定な未来を決意でねじ伏せていく覚悟が足りないということなんだろう。ああ、今度は「覚悟の足りない人間」というレッテルを貼ってしまった。