眼高手低(がんこうしゅてい)という言葉がある。眼は高いところに据えられているが手は低い所に置いたまま、つまり「理想ばかり高いのに実践する力はない」「目は肥えているのに実践はてんでダメ」という意味だ。
この言葉を知ったとき、心にくるものを感じた。簡単に言うと刺さってしまった。手を動かさずに嬉々として解釈を語る、視座だけは信じられないくらい高い、俺を名指ししてこれがお前の評価であると言われても驚かない。この言葉は目につくところに置いて戒めにしたいと思う。
ところで、この言葉について語るときに「眼高かはわからないが〜」と謙遜のつもりで言う人がいるようだ。「そんなにお目が高いわけではない」という自己認識を持つのはずいぶんと謙虚で結構なことだが、(あくまで俺の解釈では)そんな前置きをする必要はないよということを書いておきたいと思う。
この言葉を考えるうえで大事なのは圧倒的に「眼高」よりも「手低」のほうだと思う。手を動かさない人間が偉そうに解釈を垂れ、お気持ちを表明する。それだけで十分にこの言葉を適用できる状況なんじゃないだろうか。「理想が高い」とか「目が肥えている」なんてのは皮肉と解釈したほうが個人的にはしっくりくる。
- 「あなたは手を動かさないのにえらく熱心に語っていらっしゃって、ずいぶんとご立派なことですね」
- 「あなたは専門家でもないのに分かったような口をきいていますが、さすが、お目が高いことですね」
どう?「眼高」がめちゃくちゃ皮肉に聞こえてきて面白いでしょ?
「眼高手低」を心に留めるだけでは飽き足らず「解釈」なんぞわざわざ書いてしまう俺だから、この言葉を戒めにするには最適すぎる人間だということも確認できてしまった。うーん、俺の性根に巣くっているご立派な評論家根性と向き合って生きていくことにしよう。