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人間的完成の喪失(川端康成『眠れる美女』を読んで)

2023-11-01

『眠れる美女』 読書感想文です。

中学の保健体育か何かの授業で、何気なく開いた教科書の見開きに人間の精神的発達だかライフステージだかが表された図を眺めていたことを思い出す。そうか自分はいま少年期にいるんだなと合点した俺は、青年期として示された人間たちの図を見て違和感をおぼえていた。当時の自分の親くらいにあたるであろう壮年期や、祖父母にあたる老年期の区分はそんなものだろうと納得しつつ、成人済みの人間が我が物顔で占めているその期間、青年期だけはなんだか腑に落ちないといったそんな気分でいた。当時の自分には二十歳という歳が想像もつかないくらいには遠く思われていて、身の回りにいる大人全員が持っているのだと信じてやまなかった人間的完成、そういうマイルストーンの存在を疑いもしなかったのである。だから青年期に生きる彼らが一丁前に悩みを持っていそうな教科書の図に不信を感じずにはおれなかったし、というか少年というのは俺よりももっと幼い奴らのことであって、思春期だなんだで悩ましい俺たちが青年と呼ばれるに相応しいのではくらいにも考えていた。

しかし二十歳に近づくうち、この認識は徐々に修正されていった。いま俺はすでに成人したというのにちゃんと「一丁前に」悩みつつ生きているし、周りの人間も相応に子供のままである。存在を信じていた天井がハリボテであったことを合点して、このまま一生そこそこに悩みながら生きていくのだろうと理解したのだ。

川端康成の「眠れる美女」を読んだ。主人公である江口老人、まだ男を失わぬ彼のなまなましい思考は中学の時分に俺がもっていた老人観とはまるで離れたところにあった。この作品を読んでいると、老人も若かりし過去を持っていて、ひとりの人間が生きるというのはこういうことなのだと、そこには自覚できる人間的完成など無いのだという感覚が補強される。癒しあるいは尊厳を期待してしまう老人でさえひとりの人間であることを思い出す、またそれはなかなかに気持ちの悪いことではあるのだけれど、信じたくなる完璧がそこには無いのだと、このまま相応に悩みながら、大人を夢見ながら生きていくのだという感覚を得られることは救いですらあるかもしれない。