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修辞と偶像崇拝

2023-04-26

格言や名言・あるいは座右の銘のようなものは、その言葉自体だけではあまり意味を持たない。それを用いる人間がそれをどのように解釈し、どんな意味を見出していて、どんな経験や思想と結びつけていて、どうやって使うかまでがセットになってこそ意味を持つものである。

しかし周りを見渡せば、そういう言葉がスローガンのように扱われることは少なくないように思う。言葉のリズムや、あたかも上手いことを言っているような感覚、あるいは冷笑的な皮肉の醸す心地よさばかりに感動して、結果的に自分なりの解釈がないがしろになっていることは忘れがちだ。

こういう理由もあり、私は心地よいレトリックを感じる言葉に出会ったら、それが心地よいだけの空虚なことばでないか警戒するようにしている。少なくとも、そうしたいと思っている。レトリックは効果的な表現をしようとする技術であってそれ自体は悪ではないが、もとの思想が空疎なら心を震わせるだけ無駄である。

だからもし名言を見聞きして感動したのだとしたら、少なくともなぜ感動したのかをちゃんと考えるべきだ。自分がどう解釈したのか。自分のどんな経験とオーバーラップしたのか。どんな思想に共鳴を感じるのか。そして、ほかの表現に言い換えてみても依然として意味を感じられるかどうか。別の言葉で言い表したとき、それがオリジナルからどのくらい見劣りするかで、修辞的な要素の割合をある程度測ることができるだろう。

名言や格言といった端的な言葉それ自体には大した意味がないということは案外忘れがちである。言葉端の心地よさばかり見てありがたがるのは単なる思考停止であり、偶像崇拝にすぎないことを思い起こさねばならない。

…うーん、「偶像崇拝にすぎない」という表現、心地いいな…