アシモフ『ロボットの時代』を読んだ

2026-05-26

おしらせ

以下の内容には表題本のネタバレを含みます。個人的にはアシモフの短編はネタバレを食らっても楽しめるものだと思っていますが、自己責任でお願いします。

『ロボットの時代』は原題を The Rest of the Robots という、アイザック・アシモフのロボット系短編集である。アシモフの短編集のうちで最も有名な『われはロボット』との関係でいうと、こちらはその姉妹短編集的な位置づけらしい1。 X でこの本の一部が話題になっていたのを見てその存在を知り、早速手に入れて読んでみたのだった。

どんな本か

ロボットを扱う短編全8編が収録されていて、各話の前にはアシモフ本人による解説がついているのが特徴的な構成となっている。本編はもちろんだが解説のほうも面白く、各話が執筆されたいきさつであったりその反響、自分の生み出したキャラクターへの思いなどがエッセイ的に綴られており読み応えがある。

ロボット三原則

特に興味深かったのはロボット三原則についての解説である。アシモフ自身がまだひとりの読者であった1930年代の SF について、ロボットなど人間による創造物が、人間自身に反抗する・あるいは破滅させるような筋書きのものばかりであったことに嫌気が差したと書いている(文中でアシモフはこれを「ファウスト的」「メフィストフェレス的」2解釈あるいは「フランケンシュタイン・コンプレックス」などと表現している)。アシモフは非メフィストフェレス的解釈をもってロボットを扱う物語を書き始め、そこで高度なロボットの頭脳、その設計原則として明文化し活用したのが有名な「ロボット三原則」であったということらしい。

アシモフはこう書いている:

知識はたしかにそれ自体危険をはらむ、しかし危険に対する反応が知識からの後退であってよいものだろうか?(中略)ナイフには安全に握れるように柄がついている――どんな人工物にも危険を最小限にとどめるための考案がされている。(中略)ロボットは機械としてできうるかぎり安全なものとして設計されねばならない。もしロボットがいちじるしく進歩して人間の思考過程を模倣できるようになれば、それらの思考過程の性質というものは人間の技師によって設計されるのだろうし、安全装置も組み込まれるだろう。

彼のロボット観が現代で妙なリアリティを帯びているのは、このように高度なロボットもあくまで人間のための道具として扱われるという原則があり、その方針のもとに描かれる思考実験の産物であるゆえなのだろうか(もちろん例外もたくさんあるが)。

『校正』

本稿の冒頭では「X で話題になっておりこの本を知った」と述べたが、話題となっていたのはこの本に収められた一編『校正』という話の一節である。

この作品が想起するもの

アシモフの扱うロボットのうち特に産業用途のものつまり「仕事をするロボット」には、異星での掘削といった工業用途のものの登場が多いように思われる。いっぽうでこの作品はそのような通例とは異なり、いわゆるホワイトカラーの仕事をするロボットが登場する。標準的な人間の形をしたそのロボットは大学に導入され校正の仕事をするのである。そして、そのロボットを活用していた教授の一人が、当該ロボットによる校正で大きな損害を被ったとして裁判を起こすのであった。

(概ね)素晴らしい出来のAI生成物とそれのレビュー、AI による仕事を組み込んだ運用と責任の所在、あるいはLLMのシステムプロンプトとジェイルブレイク、プログラミングや文書執筆の歓びのうち LLM に奪われたかもしれない部分、そして、それに気づいた人間の人間臭い抵抗。この作品は今の我々にとって、やけに身近な事象がいくつも想起される作品だった。アシモフ作品への感想としてはあまりに月並みな反応を述べることを先に謝っておくが、これの初出が1957年、今からおよそ70年も前であることにはやはり驚かずにはいられない。

ニンハイマー教授とキャルヴィン博士

どちらかといえば、俺は賢いLLMによる社会や仕事の変化を好意的に受け止めている人間だと思う。LLMによって便利になったものは数知れないし、何より手が足りず、速度が足りず出来なかったこと、思いついても時間が足りず作れなかったもの、そういったものをLLMを使ってものすごいスピードで実現できるようになった。動くものを作ること自体の楽しさはLLMの出現によっても特に奪われた気はしておらず、むしろ増幅しているようにさえ思われる。来たるロボットの台頭へ抵抗するニンハイマーに同情の目を向けるキャルヴィン博士としての自分がそこにはいる。

ただいっぽうで、俺が数年のあいだプログラマとしての人生を送るうえで得てきた幸福のうち、LLMによってすでに失われた領域があるのもまた確かなのである。何も知らない領域のコードを書く。ユースケースを知る。テストを書いて入出力の構造を試行錯誤する。構造を見抜いてよりよい抽象を考え、またテキストに落とし込む。適切で一貫性のある命名にこだわる。そういった行為の繰り返しから得られるもの。それはある意味で文芸的で、またある面ではパズル的な趣のある行為であり、コンパイルしたあとには残らない人間のための抽象、それを表すテキスト列を病的なこだわりでこねくり回す行為であった。自分が書いたもの自体やそれの動作を発見することによってメンタルモデルが更新されていく感覚、テキストあるいは構文木の手ざわりが自分の理解に及ぼす影響、それをさらに手元にフィードバックしていく、そういう直接的で対話的な、そして内省的かつ個人的な学習の愉しみであった。LLMによってそれが全部なくなったとまでは言わない、もっと大局的な場所に楽しさが移ったのだと思うことはできる。でもニンハイマー教授の叫びもその足掻きも、俺は確かに知っているものとして読んだのだった。

最後に、ニンハイマー教授とキャルヴィン博士のやりとりを引用しておく。
彼らが誰だかわからない人向けに補足しておくと(遅い)、ニンハイマー教授はロボットの台頭をどうにかしたい人間、キャルヴィン博士はロボットを開発する企業側の人間である。以下の引用はニンハイマー教授の台詞から始まる:

「(前略)陶工が頭の中の作品だけで満足すると思うのか?アイディアだけで充分だと思うのか?陶土の手ざわりとか、頭と手がいっしょになって作品が出来あがっていくのを見守るというようなことになんの意味もないというのか?そういう過程がアイディアを修正したり改良したりするフィードバックとして役立たないというのか?」

「あなたは陶工じゃありませんよ」とキャルヴィン博士は言った。

「わたしは創造する芸術家だ。わたしは論文や書物をデザインし製作する。言葉を選んだり正しい順序に並べたりするだけじゃない。もしそれだけだったらなんの愉しみもない、なんの見返りもない。

書物というものは著者の手で造形されるべきものだ。一章、一章が育っていき、成長していく過程を自分の目で見守るべきだ。くりかえし手を入れながら、最初の概念を超えたものに変化していくさまを見守るべきだ。校正刷を手にとり、活字となった文章がどのように見えるかを眺めながら練りなおしていくべきだ。人間とその仕事とのあいだには、そのゲームのあらゆる段階でおびただしい接触が行われる――その接触自体が愉しみであり、創造したものに対するなによりの報いなのだ。あんたのロボットはそうしたものをみんな奪ってしまうんだ(中略)タイプライターや印刷機の奪うものはたかがしれている、だがあんたのロボットはわれわれからいっさいがっさい奪ってしまうんだ。あんたのロボットは校正刷まで奪ってしまう。いまにほかのロボットどもが、レポートを書いたり、出典を探したり、文章を推敲したり、結論を演繹したり、そんなことまでみんなやってのけるようになるだろう。学者にとってあとなにが残るだろう?ひとつだけ残っているな――ロボットに次になにをあたえるかという空疎な決定だ!わたしは学会の未来の世代をそういう究極の地獄から救いたかったのだ。(後略)」

引用出典:アイザック・アシモフ『ロボットの時代 決定版』小尾芙佐訳、早川書房〈ハヤカワ文庫SF〉、2004年

追記

アシモフの作品をもっと読みたくなり探したところ、どうやら『コンプリート・ロボット』という本があるようだ。当時の出版時点までに書かれたアシモフのロボットSFをすべて含む本らしい。絶版っぽいが入手できたら読んでみる。


1

早川書房による紹介: https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000011486/

2

「ファウスト」はゲーテによる戯曲『ファウスト』、あるいはドイツにおけるファウスト伝説のことを指す。知識や快楽および人生の真理などを求める学者ファウストの前に現れ、その欲望につけ込む悪魔がメフィストフェレスである。悪魔メフィストフェレスは人間ファウストに力を与える代わりに魂を手に入れようとする(らしい。不勉強のため詳しくは知らない)。

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